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浄福寺の歴史

浄福寺の歴史

武蔵風土記によると、当寺は樽見郡御所村(現:埼玉県吉見町)の息障院の末寺でした。
開山は、文永年間(1260年代後半)と言われ、開山の祖は廣恵上人です。廣恵上人の父は、永らく子どもを授かることができなかったが、千手観音に祈りを重ねたところ子どもを授かりました。その後、その子どもは僧侶となり名を廣恵と改めたと言われています。ある時、広恵大師が夢の中のお告げにしたがい、旅をした最中、この里で千手観音と巡り合い、その縁にしたがいお堂を建てたことが浄福寺の始まりです。


千手観音立像

厨子は東京都の指定有形文化財

その後、大永年間(1520年代)に木曽義仲の末裔である大石道俊が、この地に居城を構えました。大石道俊は後継となる子どもが居なかったことから、この千手観音に祈りをささげたところ、子どもを授かったそうです。この子どもが、後の大石憲重です。その後、大石氏は、北条氏康の力を借り、滝山城に居城を移しました。


浄福寺城趾

裏山は全体が城跡となっており、中腹までは32体の観音様が祀られている

戦国末期には豊臣秀吉による八王子城攻めにも戦火を免れ、天正年間より江戸時代に至るまで、御朱印十石を受け、境内11390坪に加え、寺領・堂宇を整えました。周辺地から山梨県にかけて末寺14ヶ寺を数えたと言われています。


宝物の駕籠

本堂内には、江戸幕府から賜った駕篭や箪笥などの品がある

当寺の中興開基の祖は、長尊法印(永禄四年寂)です。本尊両脇には両部曼荼羅、杉戸には狩野派の絵師による壁画、宝物の中には密教の秘法を伝授(灌頂)するための曼荼羅があることからも江戸時代には大きな規模の寺院であったことがうかがえます。戦争・天災などの災厄があったものの、その法燈は連綿として450年以上守り続けられています。


狩野派の壁画

本堂内の杉戸に残る狩野派の絵師による壁画