浄福寺城跡
浄福寺城跡
『武蔵名勝図会』によれば、浄福寺城は16世紀中ごろにこの地を治めていた大石憲重が築いたとされています。大石氏は、関東管領であった上杉氏の武蔵守護代でした。関係が明らかではない点がありますが、八王子城(北条氏照の居城)の乾(北西)の方角にあたり、搦手に位置します。浄福寺が位置する松嶽は陣馬街道沿いの集落です。この街道は甲州と武蔵をつなぐ重要な道であり、浄福寺から東方は平野が広がることから守りの要衝であったことがうかがえます。
出典:
「浄福寺城跡縄張図」(東京都教育委員会編『東京都の中世城館』(主要城館編)平成18年刊 35頁所収 第28図)
東京都教育委員会所蔵
浄福寺城の標高は356m、浄福寺との高低差は約160mもあります。城の入口は二ヶ所あり、一つは浄福寺墓地の背後、もう一つは恩方第一小学校の裏にあります。いずれの場所にも寺院が配され(恩方第一小学校の裏にはかつて浄福寺の末寺[真福寺]があった)、さらには城内に金毘羅宮が祀られていることからも信仰とのつながりが伺えます。
中腹までは、整備された九十九折りの道が続きます。麓から5分ほどで観音堂がある中腹にたどり着きます。
観音堂のある中腹からは、細い峰伝いに主郭までの道が続きます。左右は、急峻な崖となっており山城ならではの雰囲気を味わえます。
峰の所々には「たて堀」と呼ばれる遺構が見られます。「たて堀」は山の側面に掘られることで峰が細くなり、より守りやすくなります。写真は、峰上からたて堀をのぞいたところです。
西側の峰は、平場が連続しており、道は平場の直下を通る構造になっている。これによって、攻め手に対して上方から槍や矢を出すことができます。写真は、平場から下方をのぞいたところ。矢印は攻め手の通る方向です。
頂上部(主郭)は、二重の曲輪となっています。写真上方が主郭であり、小さな金毘羅宮が祀られています。
主郭から東方の尾根には比較的保存状態の良い大きな堀切が残っています。堀切は峰を切り崩して段差を作り攻め手の進行を防ぐ場所です。1の写真は、峰伝いに見たところ、2の写真は峰を横から見たところです。
山道の注意
浄福寺城には、この他にも馬出、犬走り、畝堀など中世の山城に特徴的な遺構が数多く残っています。主郭までは、およそ30分ほどかかります。途中は急峻な山道であり、整備されておらず大変危険な場所が続きます。登山される方はご自身の判断で、くれぐれもお気を付けください。